街場のメディア論 (光文社新書)を読了。
常々感じていた疑問に応えてくれるかもしれないと思って買った本。
要は「メディアは権力者へ批判さえしていれば生き残れる、正当性を保持出来る」と常々感じていた疑問に対する一冊と思って読んだもの。新聞やテレビ、週刊誌を読むと、こうした感じ方は稀なのか、それとも他にも同じ感じ方をしている人がいるのだろうか?そんな疑問に応えてくれるかも知れないと思って買ったもの。
結局のところ、批判さえしていれば生き残れる可能性は高いし、先ずは批判から始めることは、メディアという生業の特性上、必要なこと、ということは分った。
例えば、消費増税でもいいし、不審火による火事であってもいいし、記事のネタとしては何でもよい。最初の印象と、最後の結論が真逆のケースもあるはずなのに、そういう場面で必要な訂正記事を書かないことが多いのだ。つまり、警察の調査の進捗に伴い、事実が明るみになるにつれて、事態が初期報道内用から変わる場合には、自分自身でも情報収集しないと、結果として誤った初期報道を鵜呑みにすることになるのだ。訂正記事は自己批判でもなんでもない、真実を報道する行為なのに、メディア界は追跡報道が少ないので要注意ということであった。
他にもこんなケースも同じように違和感を持っていた。
「今日、国道で少女がひき逃げされる痛ましい事件が起こりました。こんなことが有って良いのでしょうか?」といったテレビ報道も同じこと。テレビ局側が一方的に「正義」を翳しているようなもの。だけど、その主観的な報道は何とも安っぽい。要は報道こそ価値あるサービスなのだ。事実を報道すればよいのに、なぜか価値判断まで入れて放送する。更にいえば、警察の調査の結果、誤った内容であったとしても、今度は「警察の調査方法に問題があると思われます」となるから、正直なところニュース報道番組がコメンテーター用の番組に成り下がっているようなもの。
いつからテレビは目を見張る存在ではなくなったのだろう。
見聞が広がるような番組を見たいし、ニュy−巣番組も見たい。
いま、こうした欲求に正面から応えてくれているのは、NHKくらいしかない。
しっかり制作費用を使って取材しているので、長期ロケが必要な番組もあるし、見ていて驚く内用もあるし、楽しい。
こういう番組が少なくなっている民放各社の関係者に見て欲しい番組。
とはいえ、くだらない番組でも見てしまう視聴者側も同罪。
視聴者側の知的好奇心の水準が低下している証かもしれない。
そんな風に思いました。